「桜橋」は、先に書いたようにエピソードに彩られた新しい橋です。
隅田川の東岸の台東区と西岸の隅田区とに分けられて造られた隅田公園を直接繋ぐ隅田川架橋唯一の歩行者専用の橋で、上から見ると人が両手両足を広げた形になっています。隅田公園は関東大震災復興計画の一環でつくられ、昭和6年(1931)に開園しました。
東京メトロ銀座線「浅草駅」からバスで10分ほどですが、歩けない距離ではありません。また東部伊勢崎線「曳舟駅」あるいは京成押上線「京成曳舟駅」から。
橋の東側は浮世絵や芝居に見られる華やかな芸者と料亭の花町、有名な「向島」です。
その東詰あたりの土手に「墨堤植桜の碑」と「桜勧進」の解説板が立っています。それによると、江戸時代の桜堤は今の隅田川神社の辺りだけでしたが、1800年代に、村人たちから、もっと桜の木を増やそうという声が上がり、将軍の命で植えられた100本の桜は、1880年頃には桜橋あたりまで植樹されたと書かれています。地元有志だけでなく勧進(寄付)を広く呼びかけてのことだったそうです。
隅田川の桜の中心は、いま、桜橋から駒形橋の手前までの隅田川公園の桜です。ソメイヨシノ、ヒガンザクラ、エドサクラなど多種類の桜が花を競い合い、その数300本とも。
橋がない頃、堤の下に鎮座する三囲神社(みめぐりじんじゃ)の大鳥居の上部が満開の桜越しに対岸から見えたと伝えられていますが、この大鳥居は歌舞伎の背景や浮世絵の題材となっています。
2010/04/15
2010/04/12
歩くと知識も豊かになり健康・美 一挙三得
いつの間にやら博学になりました。これは予想外のこと。
白髭橋の西側には「吉原遊郭」のあった千束があり、隣接して「樋口一葉記念館」(竜泉3丁目)があります。
独特の文化を残したこの遊郭。もともと現在の日本橋人形町のあたりにあったのですが、元和3年(1617)明暦の大火をきっかけに幕府は今の台東区千束に移したとのことです。旧所在地の頃を「元吉原」、移転後を「新吉原」と呼んでいいます。
「見返り柳とその碑」が土手通りの「吉原大門」交差点脇に建てられています。ガソリンスタンドの前です。帰り際、遊客がこの辺りで名残惜しく振り返ったという言い伝えから、この名づけられたのです。この交差点には老舗てんぷら土手の伊勢屋と桜なべの中江がいつも大勢のお客をよんでいます。
今は跡形もありませんが、この交差点を西に入ったところに「衣紋坂」があったのだそうです。こちらは遊客が郭に向かうとき、このあたりで身なりを粋に整えたところからつけられたからそう呼ばれたようです。
その先に「吉原大門(おおもん)」があったのですが、今は通りの両脇に「吉原大門」と書かれた柱が立っているだけの寂しさです。
吉原遊郭は幅およそ2mの大溝、通称、「鉄漿(おはぐろ)どぶ(遊女がおはぐろの口を漱いだからとの説)」が周囲を取り囲んだ2.7万坪の区域で、大門が郭と外界との唯一の出入り口。郭には、最盛期には200軒以上の見世が並び、数千人の遊女がいたと言われ、昭和31年(1956)売春防止法が施行されるまで存続していました。
吉原を抜け東京メトロ日比谷線「三ノ輪」駅まで歩きます。
駅のすぐそばに「浄閑寺」があります。寺院内の新吉原総霊塔の基部に、川柳「生まれては苦界死しては浄閑寺」と刻まれた碑があります。満足な食事を与えられず、病気であろうと過酷な仕事を強いられ、21~22歳の若さで死んだ吉原遊女3万人余りが投げ込まれるように葬られたため「投込寺」とも言われています。
白髭橋の西側には「吉原遊郭」のあった千束があり、隣接して「樋口一葉記念館」(竜泉3丁目)があります。
独特の文化を残したこの遊郭。もともと現在の日本橋人形町のあたりにあったのですが、元和3年(1617)明暦の大火をきっかけに幕府は今の台東区千束に移したとのことです。旧所在地の頃を「元吉原」、移転後を「新吉原」と呼んでいいます。
「見返り柳とその碑」が土手通りの「吉原大門」交差点脇に建てられています。ガソリンスタンドの前です。帰り際、遊客がこの辺りで名残惜しく振り返ったという言い伝えから、この名づけられたのです。この交差点には老舗てんぷら土手の伊勢屋と桜なべの中江がいつも大勢のお客をよんでいます。
今は跡形もありませんが、この交差点を西に入ったところに「衣紋坂」があったのだそうです。こちらは遊客が郭に向かうとき、このあたりで身なりを粋に整えたところからつけられたからそう呼ばれたようです。
その先に「吉原大門(おおもん)」があったのですが、今は通りの両脇に「吉原大門」と書かれた柱が立っているだけの寂しさです。
吉原遊郭は幅およそ2mの大溝、通称、「鉄漿(おはぐろ)どぶ(遊女がおはぐろの口を漱いだからとの説)」が周囲を取り囲んだ2.7万坪の区域で、大門が郭と外界との唯一の出入り口。郭には、最盛期には200軒以上の見世が並び、数千人の遊女がいたと言われ、昭和31年(1956)売春防止法が施行されるまで存続していました。
吉原を抜け東京メトロ日比谷線「三ノ輪」駅まで歩きます。
駅のすぐそばに「浄閑寺」があります。寺院内の新吉原総霊塔の基部に、川柳「生まれては苦界死しては浄閑寺」と刻まれた碑があります。満足な食事を与えられず、病気であろうと過酷な仕事を強いられ、21~22歳の若さで死んだ吉原遊女3万人余りが投げ込まれるように葬られたため「投込寺」とも言われています。
2010/04/09
江戸らしい香りがしてきた
もう少し歩いてみます。今日は「白髭橋」を終点にして明日次を目ざします。
この橋は大正3年(1914)に架けられ、昭和6年(1931)に架け替え新装になりました。
このあたりは昔、交通の要所で、平安時代には隅田川でいちばん古い「隅田川の渡し」、
後に「橋場の渡し」と言われた渡し場のあったところ。今は明治通りが通っています。
最寄り駅は東武伊勢崎線「東向島」です。
東向島駅から数分。明治通りの「百花園入口」とある交差点のすぐそばに「向島百花園」があります。隅田川の東側です。
四季それぞれに百花繚乱。江戸、文化・文政時代(1804~1830)、骨董を商う佐原鞠塢が四季の花を観賞できる草花を中心にした花園をつくり、著名な文人や墨人を招いて風流を楽しんだところです。現存する唯一の江戸時代の花園です。国の名勝・史跡に指定されています。
この橋は大正3年(1914)に架けられ、昭和6年(1931)に架け替え新装になりました。
このあたりは昔、交通の要所で、平安時代には隅田川でいちばん古い「隅田川の渡し」、
後に「橋場の渡し」と言われた渡し場のあったところ。今は明治通りが通っています。
最寄り駅は東武伊勢崎線「東向島」です。
東向島駅から数分。明治通りの「百花園入口」とある交差点のすぐそばに「向島百花園」があります。隅田川の東側です。
四季それぞれに百花繚乱。江戸、文化・文政時代(1804~1830)、骨董を商う佐原鞠塢が四季の花を観賞できる草花を中心にした花園をつくり、著名な文人や墨人を招いて風流を楽しんだところです。現存する唯一の江戸時代の花園です。国の名勝・史跡に指定されています。
2010/04/07
さくら花
千住大橋に別れを告げて、川伝いに南に歩きます。すっすっと歩くといっても早足で歩くことはありません。普通の速度で、あちこちを眺めながら歩きます。通りから川岸に出て下手の橋のあたり、千住大橋の方を眺めます。川幅が広く幸い天気がいいので視野がパーッと広がって気持ちのいいこと。
次の橋は新しい橋、「千住汐入大橋」です。平成18年(2006)に架けられた橋です。
ここには「汐入の渡し」の渡し場がありました。江戸時代には、いまの荒川区のこのあたりはお花見や紅葉狩りなど行楽地として賑わいを見せていたそうです。明治に入ると、現在「都立汐入公園」になっているところから北にサトザクラの古い品種が植えられ、いまでは公園には30種250本の桜が四月花を競い合います。
最寄駅は京成本線「京成関谷駅」。東武伊勢崎線「堀切駅」です。
三つ目はコバルトブルーに塗られた「水神大橋」です。こちらも新しい橋で、平成元年(1989)に造られました。
東岸にある隅田川一帯の守り神、隅田川神社(水神宮・浮島神社)にちなんで名づけられたといいます。荒川区の都立汐入公園と墨田区の東白髭公園を繋ぐ印象的な橋です。
西詰め。「千住汐入大橋」から「水神大橋」にかけて川畔に広がる汐入公園は芝生がきれいに整備されたオープンで快活な公園です。
直接行くには東武伊勢崎線「鐘ケ淵駅」下車します。
次の橋は新しい橋、「千住汐入大橋」です。平成18年(2006)に架けられた橋です。
ここには「汐入の渡し」の渡し場がありました。江戸時代には、いまの荒川区のこのあたりはお花見や紅葉狩りなど行楽地として賑わいを見せていたそうです。明治に入ると、現在「都立汐入公園」になっているところから北にサトザクラの古い品種が植えられ、いまでは公園には30種250本の桜が四月花を競い合います。
最寄駅は京成本線「京成関谷駅」。東武伊勢崎線「堀切駅」です。
三つ目はコバルトブルーに塗られた「水神大橋」です。こちらも新しい橋で、平成元年(1989)に造られました。
東岸にある隅田川一帯の守り神、隅田川神社(水神宮・浮島神社)にちなんで名づけられたといいます。荒川区の都立汐入公園と墨田区の東白髭公園を繋ぐ印象的な橋です。
西詰め。「千住汐入大橋」から「水神大橋」にかけて川畔に広がる汐入公園は芝生がきれいに整備されたオープンで快活な公園です。
直接行くには東武伊勢崎線「鐘ケ淵駅」下車します。
2010/04/05
いよいよ出発
本やネットで調べていくうちに次から次へと興味が湧いてきました。
次は地図など見て、出発点の千住大橋までどう行くか調べます。
最寄駅は京成本線「千住大橋駅」、JR常磐線・東京メトロ日比谷線「南千住駅」だということがわかりました。
「千住大橋」にやってきました。文禄3年(1594)に架けられたこの橋は、 隅田川に架けられた最初の橋ですが、昭和2年(1927)架け替え新装となりました。
今は日光街道(国道4号線)が通る橋で、実はここが松尾芭蕉が「奥の細道」に旅立ったところです。橋の北詰め(足立区)の大橋公園に「奥の細道矢立て初め」の碑が立っているのはそのことを示しています。
旅に出るとき芭蕉は「行く春や 鳥啼魚の目は泪」と句を詠んでいます。
ふと気がつくと、公園から堤防下に降りられるようになっています。降りてみると「千住大橋際歴史資料空間」という堤防を利用した展示場がありました。
この辺りが将軍家日光門主など高貴な人物の「御上り場」だったとの解説が出迎えてくれます。そして堤防壁には芭蕉の旅立つ場面が描かれ、また千住橋を描いた広重や千住葱を運ぶ牛を描いた北斎の浮世絵の壁画、江戸時代の相撲の取り組み表などが描かれているのです。
戻って公園の少し先、中央卸売市場足立市場入口左に旅立つ芭蕉の立像が立てられていることを交番で教えてもらいました。
普段は気がつかないで通り過ぎている文学碑や歌碑など結構あるのではないかと思います。
次は地図など見て、出発点の千住大橋までどう行くか調べます。
最寄駅は京成本線「千住大橋駅」、JR常磐線・東京メトロ日比谷線「南千住駅」だということがわかりました。
「千住大橋」にやってきました。文禄3年(1594)に架けられたこの橋は、 隅田川に架けられた最初の橋ですが、昭和2年(1927)架け替え新装となりました。
今は日光街道(国道4号線)が通る橋で、実はここが松尾芭蕉が「奥の細道」に旅立ったところです。橋の北詰め(足立区)の大橋公園に「奥の細道矢立て初め」の碑が立っているのはそのことを示しています。
旅に出るとき芭蕉は「行く春や 鳥啼魚の目は泪」と句を詠んでいます。
ふと気がつくと、公園から堤防下に降りられるようになっています。降りてみると「千住大橋際歴史資料空間」という堤防を利用した展示場がありました。
この辺りが将軍家日光門主など高貴な人物の「御上り場」だったとの解説が出迎えてくれます。そして堤防壁には芭蕉の旅立つ場面が描かれ、また千住橋を描いた広重や千住葱を運ぶ牛を描いた北斎の浮世絵の壁画、江戸時代の相撲の取り組み表などが描かれているのです。
戻って公園の少し先、中央卸売市場足立市場入口左に旅立つ芭蕉の立像が立てられていることを交番で教えてもらいました。
普段は気がつかないで通り過ぎている文学碑や歌碑など結構あるのではないかと思います。
2010/04/03
隅田川の桜
隅田川は桜の名所として有名です。川岸の満開の桜はお花見で大変な賑わいを呈します。
川岸だけでなく屋形船も大活躍。
桜の名所は全国にたくさんありますが、隅田川を彩る満開の桜は格別です。四代将軍家綱とも八代将軍吉宗とも、いずれにしても江戸時代、将軍の命で100本の桜の木が植えられたのが始まりとされています。
こんなエピソードもあります。明治末期、来日したタフト米大統領夫人が向島の桜に魅了されたのがきっかけで、当時の東京市長の尾崎行雄がワシントンD. C.に桜を寄贈しました。
昭和60年(1985)、隅田川に新しく歩行者だけが通れる「桜橋」の建設が始まりました。このことを知った米国の首都ワシントンD. Cは、ポトマック河畔を彩る桜の孫桜をお祝いに贈ってきたのです。今、その桜も隅田川の堤で花を競っています。
隅田川の西岸に長く広がる隅田川公園には武島羽衣が作詞し、瀧廉太郎が曲を書いた名曲『花』の碑が建てられています。隅田川を歌った明るく楽しい歌です。
♪春のうららの隅田川・・・・・
川岸だけでなく屋形船も大活躍。
桜の名所は全国にたくさんありますが、隅田川を彩る満開の桜は格別です。四代将軍家綱とも八代将軍吉宗とも、いずれにしても江戸時代、将軍の命で100本の桜の木が植えられたのが始まりとされています。
こんなエピソードもあります。明治末期、来日したタフト米大統領夫人が向島の桜に魅了されたのがきっかけで、当時の東京市長の尾崎行雄がワシントンD. C.に桜を寄贈しました。
昭和60年(1985)、隅田川に新しく歩行者だけが通れる「桜橋」の建設が始まりました。このことを知った米国の首都ワシントンD. Cは、ポトマック河畔を彩る桜の孫桜をお祝いに贈ってきたのです。今、その桜も隅田川の堤で花を競っています。
隅田川の西岸に長く広がる隅田川公園には武島羽衣が作詞し、瀧廉太郎が曲を書いた名曲『花』の碑が建てられています。隅田川を歌った明るく楽しい歌です。
♪春のうららの隅田川・・・・・
2010/04/01
隅田川と橋
「千住大橋」から隅田川が東京湾に注ぐ際の「勝鬨橋」まで橋は18 あります。
橋のあるところの多くは江戸時代に「渡し舟」の乗り場のあったところです。当時、幕府は江戸防衛のため極力架橋をおさえて、渡し舟を運航させました。
しかし、時とともに橋を重要視するようになり渡し舟は次第に姿を消していきました。ただ橋は維持費がとてもかさむため、なかには武士を除き、通行料にあたる橋銭を取ったりした橋もあったそうです。
今の橋は、近年になって架けた橋を別にすれば、古い橋を何度か改修したり、架け替えたりして維持されてきているのです。大震災や大空襲などがありました。また老朽化という問題もあったからです。
私は18のすべての橋をポイントに隅田川の両岸を歩きましたが、ここでは「桜」をテーマに「千住大橋」から「吾妻橋」まで、言って見ればおよそ4割の距離を2日に分けてみます。
歩く前に、今の東京と江戸について対比して書いてある本を2冊読み、興味を惹いた記事をメモしました。途中で見落とさないためです。橋のこと、これから書く歴史的エピソードも興味を引き立たせる要素でした。所在、最寄駅やバス停などもメモの対象です。
それを見やすい地図に照らして確認しておきます。道筋の確認は大事です。地図は軽く、見やすい週刊誌の半分くらいのハンディタイプが便利です。
あとは「持ち物」のところで書いた中から必要なものを揃えます。今回は写真を撮ることも目的の一つにして一眼レフを用意しました。あえて広角レンズだけでいくことにしました。
橋のあるところの多くは江戸時代に「渡し舟」の乗り場のあったところです。当時、幕府は江戸防衛のため極力架橋をおさえて、渡し舟を運航させました。
しかし、時とともに橋を重要視するようになり渡し舟は次第に姿を消していきました。ただ橋は維持費がとてもかさむため、なかには武士を除き、通行料にあたる橋銭を取ったりした橋もあったそうです。
今の橋は、近年になって架けた橋を別にすれば、古い橋を何度か改修したり、架け替えたりして維持されてきているのです。大震災や大空襲などがありました。また老朽化という問題もあったからです。
私は18のすべての橋をポイントに隅田川の両岸を歩きましたが、ここでは「桜」をテーマに「千住大橋」から「吾妻橋」まで、言って見ればおよそ4割の距離を2日に分けてみます。
歩く前に、今の東京と江戸について対比して書いてある本を2冊読み、興味を惹いた記事をメモしました。途中で見落とさないためです。橋のこと、これから書く歴史的エピソードも興味を引き立たせる要素でした。所在、最寄駅やバス停などもメモの対象です。
それを見やすい地図に照らして確認しておきます。道筋の確認は大事です。地図は軽く、見やすい週刊誌の半分くらいのハンディタイプが便利です。
あとは「持ち物」のところで書いた中から必要なものを揃えます。今回は写真を撮ることも目的の一つにして一眼レフを用意しました。あえて広角レンズだけでいくことにしました。
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