2010/04/12

歩くと知識も豊かになり健康・美 一挙三得

 いつの間にやら博学になりました。これは予想外のこと。


 白髭橋の西側には「吉原遊郭」のあった千束があり、隣接して「樋口一葉記念館」(竜泉3丁目)があります。


独特の文化を残したこの遊郭。もともと現在の日本橋人形町のあたりにあったのですが、元和3年(1617)明暦の大火をきっかけに幕府は今の台東区千束に移したとのことです。旧所在地の頃を「元吉原」、移転後を「新吉原」と呼んでいいます。


「見返り柳とその碑」が土手通りの「吉原大門」交差点脇に建てられています。ガソリンスタンドの前です。帰り際、遊客がこの辺りで名残惜しく振り返ったという言い伝えから、この名づけられたのです。この交差点には老舗てんぷら土手の伊勢屋と桜なべの中江がいつも大勢のお客をよんでいます。


 今は跡形もありませんが、この交差点を西に入ったところに「衣紋坂」があったのだそうです。こちらは遊客が郭に向かうとき、このあたりで身なりを粋に整えたところからつけられたからそう呼ばれたようです。


 その先に「吉原大門(おおもん)」があったのですが、今は通りの両脇に「吉原大門」と書かれた柱が立っているだけの寂しさです。



 吉原遊郭は幅およそ2mの大溝、通称、「鉄漿(おはぐろ)どぶ(遊女がおはぐろの口を漱いだからとの説)」が周囲を取り囲んだ2.7万坪の区域で、大門が郭と外界との唯一の出入り口。郭には、最盛期には200軒以上の見世が並び、数千人の遊女がいたと言われ、昭和31年(1956)売春防止法が施行されるまで存続していました。


 吉原を抜け東京メトロ日比谷線「三ノ輪」駅まで歩きます。


 駅のすぐそばに「浄閑寺」があります。寺院内の新吉原総霊塔の基部に、川柳「生まれては苦界死しては浄閑寺」と刻まれた碑があります。満足な食事を与えられず、病気であろうと過酷な仕事を強いられ、21~22歳の若さで死んだ吉原遊女3万人余りが投げ込まれるように葬られたため「投込寺」とも言われています。

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